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3日に放牧中の事故が原因で亡くなったオグリキャップ。ハイセイコー以来の地方出身のスターホースとして日本の競馬ブームを支えた。エリートの中央馬を倒し、逆境にも負けない姿は多くのファンの心をとらえ、社会現象を巻き起こした。 1970年代前半の第1次競馬ブームの立役者になったのがハイセイコーで、オグリキャップは第2次競馬ブームをつくった。77年から11年間1兆円台だったJRAの年間売り上げはオグリが頭角を現した88年に2兆円を突破。その後飛躍的に伸び、2年後の90年に3兆円を突破。昨年は2兆5900億円にまで落ち込んだが、97年には4兆6億円を記録していた。 競馬場の入場人員は、オグリの引退レースとなった90年有馬記念当日の中山競馬場は同場最多記録の17万7779人を集め、場内は身動きが取れない状態になった。同年のダービーデーの東京競馬場には日本の競馬史上最多の19万6517人を記録している。 オグリをはじめ人気馬のヌイグルミなどのキャラクターグッズも爆発的に売れるようになった。競馬場には若いファン、女性が目立つようになり、現在は10%に満たない20歳代のファンのシェアが30%近くに上った。 オグリキャップの人気の要因として考えられるのは、大井競馬出身のハイセイコーと同様、岐阜県笠松競馬出身とマイナーな地方競馬から移籍してきたことが、判官贔屓の日本人の心を打った。さらにクラシック登録がなかったこと。現在設けられている追加登録制度は当時はなかったため、高い能力がありながら皐月賞、ダービー、菊花賞に出走できない不運が同情された。 さらにローテーションもファンを驚かせた。4歳時の89年秋にマイルチャンピオンシップ(優勝)、ジャパンC(世界レコードの2着)とGIに2週連続で好走。それ以前もその後もまず見られない常識破りのローテーションで、2歳から5歳までタフに走り続けた。 同時期に天才・武豊騎手がデビュー。スポーツ紙のカラー化もちょうどこの頃で、馬や緑の芝が映える競馬が1面を飾る日が増えた。こうした相乗作用もあり、オグリキャップ、競馬人気は一気に上昇していった。 7月4日9時45分配信 サンケイスポーツ
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